徒然なる京都 令和洛中の記

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祇園祭り

京都の夏と言えば祇園祭り。

物心ついたときから、宵宵山宵山の山鉾町の露店めぐり、そしてクライマックスである山鉾巡行見物とは何十回となく繰り返されてきた風物詩である。

まだ幼稚園の頃だろうか、宵山の露店を祖父に連れられて2人でめぐり歩いた。どういう理由だったか、今となっては知るすべもないが、なぜか祖父と私の2人であった。風船を買ってもらい、定番の金魚すくいもさせてもらったことだろう。

 

そして、鉾の辻(四条室町)でのことだった。私は、ふと、風船を手から離してしまった。風船はそのままあれよあれよという間に空高く舞い上がっていった。「あー」と言いながら風船を見上げる祖父と私。その一瞬を今でも覚えている。飛んでいく風船を無念の思いをもって見つめる自分の目線が今でも思い出されるような気がするのである。

 

華麗なゴブラン織りを身にまとった月鉾、菊水鉾、鶏鉾、函谷鉾といった主役級の鉾が四方に見れるこの鉾の辻のど真ん中。歩行者天国になった四条室町のど真ん中で、私と祖父はしばらく空を見上げていた。周りは人の波、波また波である。

 

弱い子だった私は泣きに泣いた気がする。汗をかきながら、浴衣姿で歩き、それでなくても疲れ果てていた私は、大事な風船を空に召し上げられてしまい、泣きじゃくった挙句におそらくもう歩けない、と愚図ったのであろう、祖父に抱きかかえられた(おんぶだったかもしれない)。風船をなくした無念と、7月の蒸しあげられるような梅雨明け前の京都の暑熱のなかで、私はそのまま寝入ってしまった。そして、そこから自宅までどのようにして帰ったかの記憶は、ない。

ただ、帰宅したとき、祖父は、私の体重が思いのほか重く、おんぶをしたまま寝入られてしまってどうしようか困り果てた、と言っていたことを覚えている。

もう50年以上も前のことになるが、これがその後何十回となく繰り返される祇園祭にまつわる最初の想い出である。

 

祖父は2005年(平成17年)に100歳を目前にして他界した。ほぼ老衰といってよいだろう、天寿を全うした人生だった。生きていれば115歳にほどになる・・

その祖父が還暦(60歳)だった頃の2人だけの想い出である。

令和2年の今、私自身があと数年でその年齢、というところに差しかかってきている。

 

今年の祇園祭は、コロナのため、巡行もなければ、宵山もない。残念だが感染防止のためにその判断は致し方ないことだ。私の家は曽祖父の代に京都に出てきて鉾の辻から程無い場所に店と住居を構えていた。その関係で、その町内の山鉾の粽(ちまき)を毎年購入し、家の門の軒下に飾り付けている。京都の家では今でもよく見られる風景である。

普通は、各山鉾の粽、手ぬぐい、団扇などは各町内で祇園祭の期間売られ、宵山で出かけた際などに購入するのだが、今年はその販売もないように思われた。念のためネット販売を探してみると、たまたまその町内は粽などを販売しているのを見つけた。自分の先見の明(さほどでもないか・・)を密かに誇りながら今年はそこで購入することとした。

 

今日、その粽が手元に届いた。ここ数日、熊本をはじめとして各地で洪水被害が相次ぐような大雨が続いているので、この長雨が一段落しそうな来週末(7月中旬)あたりに、昨年のものと取り換える予定だ。今年は、両面テープをできるだけ使わないように柱に固定する方法を考えなければ・・。

 

追伸:粽はビニル袋にその山鉾のお札とともに入れられている。ビニール袋から出して飾り付けるのが本当だということなので、粽が傷むのを覚悟で今年は初めて袋から出して飾ることにした。結論から言うと、なかなか難しいものである。来年までには風の強い日もあることを考えると、やや心もとない固定ぶりである。

とにもかくにも今年も飾り付けをすることはできた。来年、コロナが終息していれば、この追伸を書いている26日少し前に、オリンピックが日本の地で開催されているはずだ。淡い期待をこめて思う。

 

 

パウル・カレルの書いた戦記

「肯定と否定」という映画をAmazon primeで見つけ、面白そうなので見始めた。一旦休止中なのだが、題材は、デービット・アーヴィングというイギリス作家がペンギンブックスに対して起こした名誉毀損の訴訟である。学生の頃、私も氏の「ヒトラーの戦争」という本を読んだことがあり、その視点を面白いと感じたものだ。端的に言えば、いわゆる歴史修正主義というのだろうか、ともかくホロコーストを否定したとして、非難されたことに対して提起した訴訟である。彼は、非難者である女性作家側の出版社を訴え、結果として敗北、賠償により破産した。今も80才で存命であるが、判決後、オーストリアホロコースト否定のかどで有罪判決を受けるなど、袋叩きの感がある。今はホロコースト否定は撤回しているようである。私は、ホロコーストについては、人よりは興味を持ってきたし、多少の知識はあるものの、人様と議論を戦わせるような十分な知識があるわけではない。多数説である600万人という犠牲者数が全てドイツ政府の明示的計画的政策によるものかどうかはともかくとして、少なくとも、無かったというのは強弁が過ぎるだろうという印象を持つに過ぎない。日本人としては、ごく普通か、やや懐疑色が強いほうか。まあ、その程度である。アーヴィングについても、さほど読んでもいないので、一連の結論をどうこう、あまり感慨はない。

しかしだ、この訴訟周辺のことを調べているうちに、ショックを受ける事実に出くわすことになった。私が、戦記のドイツ人の第一人者と位置づけ、その安くはなかった著作の多くを読んだ、パウル・カレルが、今や殆ど無視される存在に成り下がっているというのである。見過ごせるわけないではないか。大木毅氏の「独ソ戦」(岩波新書)という本が最近話題になったが、その中で著者はカレルを歴史修正主義者として酷評している。「独ソ線」という新書は、新味はない(と思われたが)ものの、独ソ戦の様相を概要的に、かつ一定程度定量的な理解もできるように配慮された良書だとは思うが、このカレル評を含め他社著作に対する微分的誹謗中傷が多いことに少し戸惑うというか、違和感すら覚えた。

私は、青春時代にパウルカレルという人物の著作を、比類なき具体性、細部性をもってドイツの戦いを再現してくれる数々の著作を貪るように読んだ人間である。祖父の世代と重なる歴史感性にも非常に親和性を覚える。その恩義もあって世間の片隅からささやかながら、反論の一撃を書いておきたい。

パウルカレルという人物は、ナチス親衛隊のなかの武装親衛隊に属していた人物である。私が読んだ彼の著作は次のとおりであり、いずれもフジサンケイ出版からの単行本であり、かなり紙幅の厚い、しかも大学生の私にとっては安くはない本であった。

「バルバロッサ作戦」(独ソ戦緒戦期から1943のいわゆる”クルスクの戦い”頃まで)

焦土作戦」(”クルスクの戦い”以降ノルマンディー戦頃まで)

「彼らは来た」(ノルマンディー上陸以降の西部戦線における独軍崩壊過程)

「砂漠のきつね」(ロンメル元帥に率いられたドイツアフリカ軍団の栄枯盛衰物語)

「捕虜」(あまり書かれていないと思われるドイツ兵捕虜の処遇)

擲弾兵」(戦車将校クルト・マイヤーの戦記)

いずれも学生の私にとっては、初めて知る戦術戦略レベルの実相であり、ドイツ軍の戦争技術・敢闘ぶりには「さすがはドイツ軍」という頭の下がる思いとともに、留飲の下がる思いを覚えたものである。ただし、実は当時から「それでどっちが勝ったの」というところは確かにある本ではあった。例えば「焦土作戦」で描かれたクルスク戦などは、主題なのに何度読んでもどちらが勝ったのかはわからず、事実を淡々と書き連ねるだけで評価しない著者の態度にもどかしい思いをしたものである。まあ、クルスク戦については、大戦がドイツの勝利で終わる可能性がほぼゼロになったという意味で重要なのであって、海戦のような意味で白黒断じえないものであった、というものであることは理解している。そういった戦い毎の評価があまりない、わかりにくいという面が多く、素人には流れを追いにくい場面も多い本であったのは事実であった。

確かに、虐殺行為に関する詳細な記述は記憶にないが、「捕虜」という本はかなり詳細であって、特にあまり目にすることのなかった中立国スウェーデンのドイツ人捕虜の過酷な取り扱いなどは、中立を守るということの冷徹さの一面を垣間見ることができた。ただし、いずれも被害者はドイツ人であった。

ドイツ兵捕虜に焦点をあてた大著をものにする姿勢からして、パウルカレルが胸奥底に何を秘していたかは、私はわかる気がするし、理解できる。共感すら覚える。それはやはり、ドイツ軍のことはできるだけよく書きたいのである。そういう意味で、最悪の事件についての記載は知っていながら記述していなかった、ということはあり得るだろう。しかし、そのことは、書かれた部分についての真偽と直接結びつくものではないのではないか。私は、歴史修正主義というのは、意図をもって事実を歪曲したようなケース以外にあてはめることは適切な態度とは言えず、多くの場合は、むしろ誹謗の匂いを感じるのである。

即位礼正殿の儀 at 東京

今朝は、昨晩からの雨も上がり、朝6時過ぎには犬の散歩にちょうどよい秋晴れになる気配であった。すわ、今のうちに、と急いで家を出た。今日は御苑を通る賀茂川コースである。

 

京都御所を歩く。想えば、91年前の昭和3年には、この場所で昭和の即位大礼が執り行われていたのである。戦争がなく、帝国憲法下の登極令が廃されることがなければ、今、紫宸殿を中心とする京都御所周辺は、華やかな祝典の焦点地であっただろう。「即位の礼を行う期日に先立ち、天皇は神器を奉じ皇后とともに京都の皇宮に移る」、すなわち、即位式は京都で行うと定められていたからである。

烏丸通りにゴザを引いて、京都駅から発したろぼの列をお迎えした話を、当時女学生であったろう祖母から聞いたその無上の華やぎは今はどこにもない。「えらい変わりようや」と寂しそうにため息をついている本物の紫宸殿を左手に見ながら歩いていると、犬が糞をした。いつもここで用を足す不敬なワンコだが、洋犬だからだろうか?

紫宸殿と仙洞御所の間を歩いて東に歩を進めると、左手に京都迎賓館が遠目に入る。ここは、迎賓館が建つ前は饗宴グラウンドという野球場として市民に開放されていた。かつてよく遊んだこのグラウンドの”饗宴”という名前の由来は、昭和即位大典時に各国大公使、国内各界著名人士を迎えての数日間に及ぶ祝宴・宴会が開かれたことに由来するらしい。

昭和の即位礼は、昭和天皇の服喪期間を経て平成3年に行われた。今年は、さきの天皇上皇におなりになりご健在であることから、元年開催である。服喪期間に即位礼を行わないことも登極令の定めるところであり、これに倣ったのだろうか。それなら、京都での即位式も戦前を踏襲する選択肢はゼロではなかった。

平成の即位式にあたっては、確かそういう議論もあったと記憶するが、今回は東京でとり行われたという平成の実績が既にあるので、京都開催はこだわりの人士すら話題にしなかったようだ。京都での即位大典の体験者が(殆ど)鬼籍に入ったことも影響しているかもしれない。警備の問題もあり、空港が遠い京都での実施にはかなり難しい面もあるだろうが、知恵を使えば解決できない問題ではない。

私は京都で開催されればいいのになあ、と思っている派の人間である。近々に天皇継承のための皇室典範改正が行われるということであれば、是非あわせて即位儀式だけでも京都で開催することを議論してほしいものだ。

 

東京での即位式も無事終わり、クライマックスのときには、雨があがるどころか晴れ間から日が差し込み、虹がかかったことが話題になっていたが、京都はもっと早くからずっと快晴であったことを申し添えておこう。京都は本当にいい天気であった。

そして静かであった。

 

 

書初め

令和の即位礼を一週間後に控えた三連休の末日に、一念発起(というほどでもないが)してブログを始めることにした。 といっても、実は”ブログ”というものが世間を騒がせ始めた15年ほど前に、一度試みたことはあって、書くのは初めてではない。その時は気負い過ぎたこともあって、どういうジャンルのブログにしようかなどと考えているうちに面倒くさくなって放置してしまったのである。もうID、パスワードも覚えていない。

その後、mixitwitterfacebookinstagramといったSNSがいろいろ登場したが完全に乗り遅れてしまった。既に人生も半分を過ぎ、ひとつの区切りとなる人生イベントもあったことから、「この機会にあまり気負わずに思ったことを書きとどめておくだけでよいではないか」とあっさりと志を低くし(得意技である)、再発進に至った次第。

同世代だが、少し先輩のとあるyoutuberさんが書かれている「ブログのすすめ」に触発されたところもあって。

ともあれ、いろいろ思いつきで書いていこう。

ある京男の後半生の備忘録・・である。